大橋真帆ちゃん美帆ちゃんの強くて逞しい成長記録です。ご一読ください。

誕生まで

双胎間輸血症候群という病名が告げられたのは、妊娠23週のことでした。かかりつけ医の定期検診で胎児の状態がよくないと説明され、転院先の浜松の病院で詳しい検査をした結果でした。                          

一卵性の双子にのみおこる病気で、胎盤を共有しているそれぞれの胎児に血流の偏りがおこって、一方の子に血液がたくさん流れ心臓の負担が大きくなり心不全の危険性があり、もう一方の子は貧血になったり腎不全をおこす危険性があるとのことでした。

重症であったため、翌日県内で唯一この治療ができる医師のいる病院へ、さらに転院することになりました。

県内で初めて内視鏡手術で行われる胎児治療であったため、担当の産科医師には大変尽力していただきました。

しかし、術後の説明では胎盤の位置が難しい場所にあったため、予定していた十分な治療はできなかったとのことでした。

それから10日後、部分早期胎盤剥離のため、緊急帝王切開で、在胎25週、704g、564gの小さな小さな我が子たちが生まれました。

未熟児センターでの治療

出産翌日、ようやく子どもたちに会うことができました。高温、高湿度で、水蒸気が強く立ち込める保育器の中で、子どもたちは、小さな体に人工呼吸器や点滴、モニターなど、たくさんの器械につながれていました。在胎25週は助けられるぎりぎりに近い週数だと主治医から言われました。


生後4日、真帆の腸が穿孔し腹膜炎、ショック状態となり、緊急手術が行われました。助けられるかどうかは五分五分だと言われていましたが、幸い手術は成功しました。ただ、体のダメージは大きく、脳室周囲白質軟化症という病気は、その時の影響が大きいのではないかと、後々説明されました。

超低出生体重児の2人は、特に呼吸機能が未熟で、また、呼吸窮迫症候群という重い病気を発症したため、呼吸を助けるための人工呼吸器をはじめとする様々な治療が必要とされました。


生後1カ月、2人とも人工呼吸器をはずすことができず、慢性肺疾患と診断されました。

姉の真帆については、生後3カ月人工呼吸器がはずれて酸素吸入に切り替えることができました。妹の美帆についても人工呼吸器をはずす試みが何度か行われましたが、自力呼吸が難しく、後の検査で、声門下にできた肉芽のため気管が狭くなっている、声門下狭窄症であることがわかりました。

生後8カ月、気管切開し、1才1カ月、ようやく人工呼吸器から酸素吸入に切り替えることができました。

真帆は生後8カ月、美帆は1才半で退院することができましたが、その間、感染症や肺炎なども繰り返し、命の危機を何度も乗り越えてきました。その他にも、未熟児網膜症への治療、ヘルニアの手術、難聴、脳性麻痺の診断など様々なことがありました。


自宅療養の始まり

平成1512月、美帆が退院し、ようやく家族そろっての生活が始まりました。真帆や美帆と一緒に暮らせることに大きな喜びを感じていましたが、まだ医療やリハビリを必要とする状態だったので、在宅で育児をしていくことの困難さも実感しました。

美帆が未熟児センターを退院する時に、先に退院していた真帆も、肺炎や発作などのため入退院を繰り返す状態だったので、センターのスタッフからは、美帆については、施設入所を検討してみてはどうかとの提案がありました。

しかし、当時は、家族そろって暮らせることを待ち望んでいたので、施設のことを考えることはできませんでした。その判断の善し悪しについては、後々まで考えさせられました。医療的ケアを必要とする美帆には、多く手をかけなければならず、真帆やその上のお姉ちゃんに十分なかかわりが持てず、大きな負担をかけてしまっていたからです。

1歳半で退院した美帆は、酸素吸入と気管切開部からの吸引、経管栄養などの医療的ケアが必要な状態でした。寝返りなどの体の動きで酸素チューブや気管切開チューブが外れてしまうと、すぐに呼吸困難になり顔面蒼白になってしまうため、片時も目が離せず、体調が悪くなると、夜間でも数分おきの吸引が必要な状態でした。


通院などの外出時は、酸素ボンベや、吸引や経管栄養に必要なものなど、大量の荷物を準備する必要があり、真帆の見守りも必要になるため、主にヘルパーさんの付き添いを調整し、その他、夫や祖父母に協力してもらっていました。

しかし、母ひとりで連れ出さなければならない時もあり、そのような時は、双子用ベビーカーの手前に美帆を座らせ、後ろの席に酸素ボンベなどの荷物、真帆は抱っこという状態でした。

美帆の退院にあわせて、ヘルパーさんの居宅介護サービスや、訪問看護サービスも利用するようになっていました。

しかし、島田市内では、その多くは高齢者の在宅介護が中心で、子どもの在宅介護まで対応しているところはほとんどなかったため、サービスを軌道にのせるまでは、試行錯誤の連続でした。

いろいろありましたが、当時から来てもらっている、居宅介護サービスの業者のヘルパーさんたちは、わが子のように子どもをかわいがり、愛情をいっぱいそそいでくれる方が多く、母である自分が疲れていたり、落ち込んでいたりしていて十分にできていなかったことを、たくさんフォローしてくれました。

その他、サービスについては、ショートステイの利用についてもいろいろ検討したのですが、医療的ケアに対応する施設は、麻痺があっても不安定ながら動ける状態が壁になり、施設側の受け入れの事情で、利用が難しいものとなっていました。


集団生活の始まり

真帆が2才半になった時、療育施設のあさひ学園への通園が始まりました。最初の2年くらいは体調を崩したり入院することも多く、園も休みがちでしたが、年少さんくらいからは、安定して通園できるようになっていきました。

麻痺のため、走ろうとすると数歩で足がつっぱって転んでしまったり、言葉の遅れがあったり、体調面など不安なことが多くあり、真帆自身も最初は心細く辛い気持ちがあったと思います。

通園当初は、ちょっとしたことで怒りだしたり、頭を何度も床に打ちつけて額によく傷跡を残していました。


ですが、先生方の温かく丁寧な対応と、友だちとの楽しいふれあいを通して、生き生きと通園するようになっていきました。また、生活習慣や体力的にも大きく力をつけていきました。

年長の1年間は、真帆の受け入れに理解してくれた市内の保育園に入園しました。健常児の集団の中で、また、年長組として集大成の行事や活動に、真帆ができることを見極めて、工夫して一緒に参加させてもらい、いい経験をたくさんさせてもらいました。

また、友だちもたくさん言葉がけをしてくれたり、遊びに誘ってくれたりと、クラスの仲間として温かいふれあいがありました。

真帆自身、発達に差がある仲間の中で、ついていくたいへんさも感じられましたが、反面、友だちから刺激を受けて、同じように行動しようとしたり、言葉を出そうとしたりとがんばる姿もあり、入園させてもらったことが本当によかったなと感じられました。

真帆のあさひ学園入園から1年後、3才半で美帆も親子教室に通い始めました。医療的ケアのある、肢体不自由児の参加は、初めてのことだったので、先生方も戸惑いやご苦労も多かったと思いますが、工夫して熱心に対応してくれました。

また、座位保持装置を持ち込んで、酸素吸入や吸引をしながらの参加は、知的のお子さんの中で、少し浮いている感じではありましたが、まわりのお子さんやお母さん方も自然に受け入れてくれて、安心して参加することができました。

その後、つくしの家の親子教室へも並行して通うようになりました。こちらは、肢体のお子さんの利用者が多く、教室の参加者や先生方との交流は、本人ばかりでなく、母親である私自身も得られるものが多く、精神的にも助けられました。

体調の不安定さもあり、休みがちであったり、遅刻ばかりではありましたが、細々と通園を続けていく中で、体調面や体力面も安定してきて、美帆自身も意欲的になり教室を楽しめるようになっていきました。

年長の1年間は、新設の療育施設ふわりが、医療的ケアのある子どもも受け入れてくれることになり、入園しました。こちらでは、特に食事について丁寧な対応がありました。


それまで、口から食べることが、感覚過敏のため苦痛で拒否的な状態でしたが、最初は複数の大人で体を支えられてがんばって食べさせられる状態から、少しずつおさじやペースト食の感触に慣れて、食事を楽しめるようになっていきました。

美帆にとって食べる喜びを知ることができたのは、人生の中で大きな出来事であったと思われ、そして、そのお陰で、経管栄養を徐々に減らしていくことができたことは、大きな進歩でした。

美帆にとって、初めて家庭 と違う場で、親から離れて、友だちや先生方と過ごせたふわりでの1年間は、短い期間ではありましたが、様々な体験を通して成長できたことも多く、また、美 帆ばかりでなく、親にとっても就学にむけての準備期間であったり、大きなあしがかりになったと思われ、有意義だったと感じられました。

就学して

この4月、2人は特別支援学校の小学6年生になります。それぞれ、知的と肢体のクラスで学習しています。学校での集団生活の中で、協調性が養われ、本人たちなりに状況を理解して対応できるようになってきていると感じられます。

また、障害児の学童保育を利用しており、放課後や長期休暇も、友だちと楽しく充実した時間を過ごしています。

真帆については、拒否的だった、補聴器やメガネの装着も、自然に受け入れ、補聴器の自力での装着もできるようになりました。また、コミュニケーションの面でも、サインを覚えて利用したり、絵カードを利用したりすることで、言葉で十分に表現できないもどかしさを真帆なりに補えるようになってきました。

美帆については、入学当初は、経管栄養や気管切開部からの吸引など医療的ケアが必要な状態でした。


命を守るための大事なケアであっても、美帆には理解が難しく、わずらわしいものであるため、気管切開チューブの自己抜管が学校でもたびたびあり、悩まされました。自己抜管では、気管切開部からの出血やたんからみによる窒息などの危険があり、口からの呼吸にあまり慣れていない状態だったので、学校ではそのたびに慎重な対応があり、大事にはいたりませんでした。

小学3年生の末に、気管切開チューブを外すことができ、昨年、気管切開部の縫合手術を終えることができました。

 

また、食事も経管栄養から経口摂食にきりかえることができ、医療的ケアがほぼ終了したことで、学校生活で経験できることに、広がりが持てるようになりました。

現在は、体調も安定してきており、体力もついてきて、以前よりだいぶ意欲的になってきており、また、大人の手をひいて、自分の要求を伝えたり、感情の表出などで、自分の気持ちを表すようになり、社会性ものびてきているように感じられます。

終わりに

医学の進歩により、胎児治療を受ける機会を得て、その後、小さく生まれた2人の命が助けられ、守られてきましたが、未熟児センター退院後の生活は、病気や障害を抱え、多くの困難を伴いました。

医療や福祉、教育などの多くの専門職にかかわってもらい、支えられながらも、全体をみてマネージメントしていく役割が、子どもの場合はどうしても親になるため、常に迷いながら前に進んでいくという状態でした。

また、2人とも、乳幼児期は体調が不安定で入院も多く、いつも目の前の治療や生活に追われている状態でした。しかし、もう少し工夫して、子どもたちの気持ちに寄り添い、育児を楽しむ余裕も持てた方がよかったのかなとも感じられます。

また、子どもの立場になって考えると、障害により、健常児であったら、たやすいこと、ふつうなことも、思うようにならず、辛いことも多くあったと思います。障害があっても、状況を感じとる力はあるので、特に、感受性の鋭い真帆は、悔しさ、悲しさなどで泣き出してしまうことも多くあり、親も気持ちが分かるだけにいっしょに泣けてしまうこともありました。

この11年、いろいろあった中で、つまづいたり、立ち止まったりしながらも、本人たちなりにそれと向かい合い、親が考えている以上に、心身ともに、大きな成長がありました。それぞれの成長は、親にとって大きな喜びでもあり、励みにもなって、反対に親を支えてくれています。

今後もいろいろなことがあると思いますが、壁にぶつかってもあせらずに、子どもに寄り添いいっしょに乗り越えていきたいと思います。